昭和五十四年九月九日 朝の御理解


御理解第十九節
「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる」

 天地金乃神と同根と、天地金乃神様は金光大神の事を評して言っておられます。ですから、も、時間、空間もない、それこそ天地のどこの隅から金光大神のお名前を申し上げても、そこへ神様は行って働いて下さる、と言う意味なんです。昨日、私は末永先生から聞かせて頂いたんですけれども、丁度もうあの人がこちらへ帰りまして、もう丸二年になりますが、どうしてもあちらへ渡る事が出来ない。それは南米は宗教家というものを入れない、と言うのが国の建て前になっておるという事です。ですから今迄あったのは、まあ仕方がないとして、これからの宗教家は入れない。第一、一番初めにあちらへ参りました時が農業移民で、いうなら、ごまかして入国しとる訳ですから、どんなにバタバタしたって絶対に行けない。
 もうそれこそ、佐田先生が御本部へ勤めてます時に、あちらの御本部の先生方と、合楽があのう帰って来てから、またブラジルに行くと言いよるけれども、絶対行かれない、佐田先生は絶対行かれると言う、なら、かきゅうか、と言うぐらいに間違いなく行かれないところなんです。それでもまた、いろいろまあ、いろんなあれで、お茶の先生で行くか、又はいろいろ二年間言うて下さる、その関係のところから言うて下さる事の手を尽くしましたけども出けない、出けない筈です。
 向こうから持って来とるその、切符のようなものにですね、この男はごまかしてブラジルに来とったんだから、今度は絶対ブラジルには入れられんという事を書いてあるげな、ブラジル語で書いちゃるけん、こちらは分からんとですたい。だから、もう絶対いかれる筈がなかったね、それが、それこそ或る日突然ですたい、それこそ、あのう連絡がありましてね、そのう、ブラジルの領事がその末永建郎という人に会いたいという通知があったんです。三、四日前に参りました。
 そして、それこそもう只々神様のすさまじい働きに、おそれ入ってしまってる訳ですけれども、大体宗教、例えば合楽のような、いうならば、生々とした働きの模様やらは、言うてはいけない事になっとるんだそうです。ところが、その領事ていう方がですね、領事が質問される事が、合楽の事を返事せんならんような質問、一時間質問を受けて、ま、それに答えたという事でございますけれども、いわゆる、自分の信念を披瀝したわけです。したら大変その共鳴して下さってですね、いろんな資料も書いて下さってもう宗教家として、それこそ、堂々と入国が出来るような手続きを取ろうと言って下さったそうです。
 どんなに考えたって、それこそ出来るこっちゃないとです。ですからその、書類を作る事にしておりますけども、神様のお働きというのは、その領事の方が二世の方で黒松という方なんです。その名前を聞いただけでおかげ頂くばいと、もう一番初めから、帰って来てからあの、行けなくなった時に神様から、宗教家として堂々と渡れるおかげ頂けという事でしたからね。本当に宗教家として、まあ領事が言うて下さった事は、七割方は行けると言われたそうです。また、あちらのブラジルの方で、どう言うふうに変更になるか分からんけれども七割方は、ま、行けると言うて下さったという事。
 帰りに御本部に寄って、金光様にその事をお取次を頂いて御礼を申し上げたら、金光様が開口一番に言うとられる事は、「金光大神の広前は世界中ぞ」と、仰しゃったそうです。こんな珍しいですね。み教えをこんなふうに仰しゃると言うことは本当に、そしてその後また、いろいろ御理解下さったそうですけども、開口一番仰しゃった事は、金光大神の広前は世界中であるぞと仰しゃった。だから世界中に、いうならお道の信心が広がっていかなければならない。それには、もう合楽理念をもって海外布教はする他はない、と私が申しておりますように、海外布教は合楽理念をもってする他はない、と言うてもですやはり、金光大神のお徳にすがらなければ、ね、金光大神あっての合楽理念ですから、ね。
 おかげを頂いて合楽が南米に、いうならば一粒万倍の元を、いうならば、合楽天国建設の大きな願いをもって、南米に渡るという事に今度はなる訳であります。だから、何処のいうなら世界の隅々から祈っても、金光大神と言えば、金光大神は時間、空間を問わず、そこにお働きを始めて下さるという事になります。それは、例えば半年間ではありましたけれども、あちらへ参りまして言葉が通じないのにね、いうならば白人が助かり、黒人が助かり、現地人が助かり、勿論日本人が助かる、という様な御比礼、日に百名からのお参りがあるように、段々おかげを頂いたという事実があるわけ。
 けども南米布教、いわば教師が、宗教家が渡るという事は、もう金輪際出来ないという事にまで、なっておったものがですね、分かった事は今言うようにもう、どげな手続きを取っても行けない筈…最後のところも出したら、この男はごまかして帰って、帰国しとるのだからもう絶対南米には渡しちゃならん、来らしてはならんと書いちゃるげな、こっちは知らんものだからいろいろね、ま、手続きをして二年間。その二年間の間にです、先日から頂きますように永瀬の瀬という字とあのう、クサ冠に茂るという字がね、いうなら自然に頼んで自然に成るというおかげの、それこそすさまじさ、素晴らしさは、もう本当に、もうどんなに信心が嫌いと言うても、神様があるの、ないのという人でもです、その話しを聞いたら、やはり合点せずにはおれないような、おかげの展開になって来る訳です。 合楽のおかげはみんなそうです。自然に頼んで自然になって来る、それをだから、いよいよもって成り行を大切にするという事になるのです。成り行きそのものを神様の働きと、言うならば見るのが、頂くのが合楽の信心なんですね。それで、その二年間の間を末永先生がどういう修行をしたかという事は、皆さんが御承知の通りですけども、此頃からあんな大怪我を致しまして、骨折して、そん時に私が末永先生に申しました事は「これがブラジル行きの最後の修業だろうね」と、いう事でございましたが、本当にもう、その二年間のあの目のつまった修業もしたが、最後にそういう仕上げ的な修業までさせて頂いた事をいろいろ思う時にです、神様の、も、切なるまでの、おかげやりたしの一念がそういう痛い思いもさせる、苦しい思いもさせる、という働きにまでなって来てるのですから、御礼を申し上げん訳にはいかんのです。
 昨日、或る方がお参りをして参りました、この方も、もう人間的に本当に大変な苦しみをしておられます。普通まあ何処にでも、ま、ある話さ、と言えばある話なんですけれども、この三角関係で大変悩んでおられる、けれども、それがもう大変入り込んだ深刻なんです。その方の問題というのは、昨日もお参りをして来て、お届けをされますのに、今朝方からお夢を頂きましたと、と言うのは真っ白の菊の花が、も、それこそ生々と、それこそ青々とした菊の花を一本頂いたけれども、その根元に沢山なアリがたかっておるという、もう、それこそ蟻地獄のような苦しみをしておられる方なんですね。そして次には、御飯をつぐシャモジですね、シャモジに釘を打ち込んでおられる処を頂いたと言うのです。
 昔からよく言いますね、恨みとか、辛みとかと言う時に、それこそワラ人形に五寸釘と言うごたる思いもするだろう、という処なんだけれどもね、それこそ人を恨まず、憎まず、いうならば本当にママになる事の為に打ち込めと、シャモジというのは御飯をつぐとでしょ、ね、つぐもの、いわゆるママになる時に使うものです、だからそれに打ち込めと、心がよう分かる。それこそ、ワラ人形に五寸釘を打ち込みたいごたる思いもするだろうけれども、その思いをそのまま信心に打ち込めよ必ずママになる。今の苦しみ、いうならば白の菊の花という事は死を意味するもの、ね。
 ここで白の花が集まると、お精進事であり、霊様関係の事、人が亡くなる時なんかは白の花ばっかり集まると言ったような、ここにはそういう傾向がございます。だから白の菊というのは死んだ気でという事、それこそ蟻地獄のような、蟻のお知らせはね、力を頂くんです、だからそれこそ蟻地獄のような苦しみの時こそ、いうならばママになる事の為の打ち込み、その苦しい事が大きければ大きいだけ、神様へ向かう処の迫力もまた大きい。それこそ、この一年で相手を祈り殺そうかと、言うごたる心も起ころうけれど、そういう心を使うたんじゃおかげにならんから、いうならシャモジに打ち込めと仰しゃる、釘を、という事はママになる事の為の信心に打ち込めと仰しゃる、ね。
 もう、それこそ死んだ気でという事は、一生懸命という事でしょ、必ず道が開ける、必ず徳が受けられる、ね、いうなら白い菊の花の根元に、いうならもう沢山の蟻、それこそ蟻地獄と思われるような苦しい事であろうけれども、それを信心の力にしていけよと言う事なんだ。私はね、只おかげを頂きました、と言うただけではつまらんと思うね。苦しい思いをしただけやないの、病気をしました、はあ九死に一生を得ました、おかげ頂いたと言うだけではね、その時に力を受けました。その時に私は徳を受けたと、いうなら徳を受けたのでしょうと言え、思えれるようなおかげを頂かなければ駄目なんです。
 末永先生が二年間、それこそ一生懸命海外布教に情念を、情熱を燃やしておりますから、その為の修業を二年間、いわばしたわけでございます。しかも最後の仕上げには痛い苦しい、そういう思いまで神様はさせて、これが修業の最後だろうと言うておったら、も、それこそ、或る日突然そういう働きが起こってきた、ね。
 その宗教家をわざわざ領事が会うて面接したい、そして非常に好意的で、話を聞いて下さったという事でございますが、これまあ、それこそ開けて見なければ分かりませんけれども、そういう七部方は領事が請け負うて下さる、と言うほどしのおかげになっております。どこの果てから祈り願おうとも、金光大神の働きはそこに起こって、それこそ言葉も通じない南米の地で、しかもただ驚く事は、末永先生のお広前で、ほんの僅かな間ではあったけれども、信心の修業をさして頂いて、マットグロスソという又サンパウロから七日間もバスで行かなきゃならん、と言ったような山間僻地というかジャングル地帯、そう言うところに、一日本人が開拓の移民で入られて、その方の信心で人がどんどん今助かるようになった。
 それこそ、合楽理念をもって黒人が助かり、白人が助かり、この頃から黒人の子供の小児麻痺の子供が助かった、と言うて御礼の手紙が来とります。勿論僅かばかりの現地人も一緒に助かる、だから月次祭を仕えたいから、お装束のあれ、を送ってくれと言うて来ましたから、装束やらあの、先生と一緒のいろんな物を送ってやりました。道具を。それで此頃からお広前が出来ます、小さいお広前でしょうけれども、皆の集会場が出来る、そこで神様をお祀りしたいから、八足の作り方を教えてくれと言うて来ましたから、ひもの屋さんに言うて図面を書いて送りました。
 もう本当に金光大神の、いうならばお広前、金光大神を唱えるところに、しかも只金光大神を唱えただけじゃイカン、金光大神の教えを、いうなら合楽理念にまとめて、そしてその合楽理念による、いうならば海外布教という事になると、それこそ大した信心を稽古した訳でもないのだけれども、真心一つ親切一つで人が助かる、もう本当にそういう働きが起こって来る。
 私は昨日、昨日一昨日、昨日の晩ですね、総代会でしたが、何か終い頃から身体がぞこぞこしてから、身体中に熱を感じるんです。それで総代会も途中で御無礼して寝ませて頂いた位でしたけども、昨日は本当に何と言うかね悪寒がするんですね、熱が少しありますから、それで、ま、何時ものように九時近くまで御用さして貰って、退ってそれから繁雄さんに奉仕して頂いて、もうそん時に兎に角私のような暑がりが布団を着て、そして着物を寝間着の上に羽織るぐらいにあったんです。ですからやっぱり熱があったんだろうと思います。
 そいで昨日十一時に、ここに退がって参りました時、ここへ出て参ります時、それこそやっと出て来ましたけれども、おかげを頂いて本当に元気な心、と言うのはこんな事だろうと思うですけれども、ここへ座らせて頂いたら、おかげで途端に気分がよくなったんです。それで結局丁度十一時から五時、四時半ですから五時間半ここで奉仕させて頂いたけれども、それこそ気分よう有り難く奉仕が出来たんです。で夕べここへ出て参りまして、夕べおそう何時も出て来て御礼を申さして頂いてですね、本当に元気な心地は神様有り難い。本当にあそこで寝んどったら、とうとう寝込んでしまったかも知れんけれども、それを押して私はここへ出て来らして頂いたら、おかげで病気も、昨日はもう風呂なんかに入られるとは全然思わなかったけれども、お風呂に入らせて頂けるほど、それから昨日の朝は御飯もね、もう特別のものを作って貰って頂くほどしじゃった。処が夕べは普通にだから頂けました。
 それでもう風邪気というか、もう熱があったのがもう全然ないんです。と言うふうにおかげ頂いておる事を、確かに神様へ向かうと言うのは元気な心がいるなあ、と具合が悪いけん御無礼します、成る程それでもよい、神様はそれでも、ま、よしよしと言うて下さるだろう、本当に悪いのだから、けれどもそれを押して出て来ると言う元気な心に神様が働きなさると言うか、おかげを頂けるなあと言うふうに思ったんです。昨日は御祈念中に、その事を御礼を申さして貰いよったら、神様は『そうじゃない』と頂いたんです。どういう事じゃろかと思うたらね、『神の働きをそこに感じたからおかげになる』と、仰しゃったんです。神の働きをそこに感じたからおかげになると、そういうて見れば私が十一時から奉仕をさせて頂くようになって、もう三、四日なりますが、これは私が十一時に座ってです、もうその頃は大体普通はお参りないんです、けれども私がここに十一時から座るようにならせて頂いたら、ずうっとお参りが続くです。しかも座ったら途端に親先生に座って頂いておってよかった、というような人達が参って来るんです。
 昨日も私ここに座った途端にです、もう五年ぶりに東京に転勤になっておられた方が麻生さんのお導きで参って来よりました。その方が昨日は、私が座ったのとその方が麻生さんと二人で入って来たのとが一緒でした。いやあ、親先生が座って、麻生さんも私が十一時から奉仕しょる事は知らんもんですからね、今頃行ったっちゃおんなさらんですばってん、兎に角行ってみましょう、そして何か、ブドウ狩りか何か連れて行って帰りがけ又寄りましょう、で寄ったわけ、処が私が座っとったもんだから本人も喜ばれる、麻生さんもおかげ頂いたと言うて此処へやって来たんです。その時に私が思うた事はです、神様は一分一厘間違いはないなあと感じたわけです。それなら十一時から奉仕するごとなって、毎日それを感じておるわけですね、その神様の働きの一分一厘間違いない事かな、と思うたその心が熱はその場で引いてしもうた、身体はそのまま元気になったと言う事になるのです。だから元気を出したと言うてもです、只焦点を間違えて元気を出したんではおかげにならんです。
 金光様の先生で、それこそ元気を出して御結界に座り、御神前に座って、そしてとうとう、かつれ死にしたと言う先生がある位です。この頃聞かせて頂いた、もう本当に何年間お結界に奉仕し続けておられるけども、信者はひとっも参って来ん、助かりがない、という事を聞いた事もありますから、只その信者、教師を問わずに、その焦点を間違えずにですたいね、も、確かな焦点をそこに置いてそして、それに向かって元気な心で進むところに一分一厘間違いの無い神様の働きを、が起こって来るのであり、その神様の働きの起こって来る、それをキャッチするからおかげになるのです。こりゃ皆さん、よう分かっとかにゃ、いかんところですよ。只参りよる、元気で参りよる、辛抱して参りよるだけじゃいかんです、だから先ず焦点を絶対なものにおかなきゃいかんです。おかげ頂きたいと言うても、そのおかげを頂くその焦点がね、間違っておったらね、いくらバタバタしたっちゃ神の働きをそこに感じるような働きは、そこに起こって来ないです。
 そこで焦点を、只おかげおかげが焦点ではなくて信心が焦点、しかも合楽理念を元にした処の焦点になって、それで言うなら元気な心で神様へ向こうて来る時に、それこそ打てば響くようにですね、打てば響くようにと言うても、末永先生の場合は二年間という、いうなら空間があったようです、けれどもその二年間をです、神様の間違いない働きを実感しながら、ね、二年間。
 いうならば、自然に頼んで自然になって来るおかげになって来るんです。だから日々皆さんが、こうやってお参りをしておられてもですね、そこに神様の働きを感じられる、ね。昨日これもやっぱり福岡から参って来る婦人ですけれども、昨日の塗板に掲示してあるそれを読ませて頂いたら、もう本当に私一人の為の御理解のようであったと、ここでさめざめと泣かれるんですよ、もうそれでおかげ頂くばいと、私申しました。御理解、あ-今日の御理解素晴らしかったと言うても、私が一人で頂かんならんような御理解を頂いた時なら絶対おかげになるです、も、間違いの無い焦点がピチッと出来る訳ですからね。
 だから焦点を間違えずにです、私共が信心をさして頂いてそれでいて、いうなら何時も生々とした瑞々しい元気な心で神様へ向こうてくる時にです、そこに私がここ数日、毎日感じておるように、はあ私はどうでもやっぱ十一時に座らなければ出けなかったと、言うような人達の参拝がある。その時に私、昨日それも毎日の事ですから実感した事ですけれども、神様の働きの一分一厘間違いない事だなあと思うた途端に、私の身体が元気になった、と言うてもよい訳なんですね。ですからこういう処に信心の焦点をおいて、信心の稽古をさせて頂くならば、もう何処のどういう僻地におろうが、どういう、いうならば便所の中からお願いをしょうが、金光大神はその便所の中に来て働いて下さるのであり、どういうそれこそ南米のジャングル地帯の中から願ってもですね、金光大神の働きはもうそこに始まるという事が言えるのです。
 金光大神のいうならば働きと言うものは、いうなら時間、空間を問わない、一心を以て金光大神のお名前を言うならば、そこに唱えるところに、そこに天地金乃神様のおかげを受ける事ができる。処がです、丁寧に金光大神様を唱えとる、けれどもおかげ、いうなら間違いのない働きをそこに感じれないならばです、いうならば焦点を間違えておると思うて、いうなら改めていかなきゃならない、その焦点を、いうならば探さなければならない、ね。
 先日からも頂きますようにね、引けども押せどもおかげにならん、真のスイッチを探す事だね、ボタン一つ押せば、それこそ押せども引けども力にならなかった、動かなかったものが動く様な働きになってくる、そこから神様の一分一厘間違いのない働きを感じる事が出来る。どんなに苦しい時でも神様の働きを感じると、その苦しさが苦しさでなくて、むしろ有り難い心が起って来るです。それこそ、蟻地獄のような中にあってもです、神様の働きを感じたらその事に御礼が言えれる、そういう心でですね、それこそワラ人形に五寸釘というような思いをね、そんな強い思いで神様に向かう、その強い思いで打ち込んでいく、という事になるとおかげ頂くだけでなくて、その先には力が受けられる、お徳が受けられるという事になります。折角、金光大神に来て貰うのですからね、働きを頂くのですからね、いよいよ金光大神の働きを、十全に現していけれる信心、それを十全に現し得る手立てが合楽理念に説いてあるのです。 どうぞ。